ドライサーともう一人のアメリカ人作家——その関係から見えてくるもの
アメリカの自然主義文学にまつわる定義は,まことにややこしく,これまでAmerican Literary Naturalism, a Divided Stream(1956)を著したCharles Child WalcuttからThe Naturalistic Inner-City Novel in America (1995) のJames R. Gilesあたりまでを区切ってみると,その間にDonald Pizer,Richard Lehan,Lee Clark Mitchell,Michael Davitt Bell,June Howard,Walter Benn Michaelsなどの面々がそれぞれに独自の定義づけをして論を展開している。歴史的に19世紀の産物としてみるのか,Walcuttのいう「変幻自在な性質」(the protean nature of American naturalism)を援用したPizerが説いたように,自然主義小説は時代とともに,そのときどきの哲学的・科学的思想と結びつきnaturalistic fictionとして命脈を保っているのか,など狭義と広義の幅をもつ。それゆえ(アメリカ)自然主義というタームを用いるときは細心の注意が必要だろう。けれども,さしあたってはTheodore Dreiserがアメリカ自然主義作家の横綱でSister Carrie (1900)を嚆矢とし,An American Tragedy (1925)においてその頂点を極めたといういまの教科書的な文学史の定説に従い,さしずめStephen CraneやFrank Norrisあたりが短命に終わったこともあり,同様に不惑で他界したJack Londonとともにドライサーの脇を固める大関なのだろう。また,初期自然主義作家の要素を備えたKate Chopinにも注目する必要があろう。ただ,自然主義というタームにまとわりつく単純なイズムでこうした作家を裁断してしまうならば,彼らの作品のなかに潜んでいる詩的言語なり,決定論を越えた言説なりを見落とすことになるだろう。クレインだけは別格でニューヨークのバワリー地区の環境を問題にしたMaggie:A Girl of the Streets (1893)を出発点としながらも(その意味では自然主義)彼の詩作によって印象主義とかモダニズムなどの関連で,すなわち自然主義から離れた地平で批評されてきたことは知られるとおりである。彼らのひと世代前のWilliam Dean Howellsがアメリカ小説にリアリズムを誘導する旗頭として「運動」を推し進めていたのとは違って,次の世代の彼らは自然主義を「運動」としてまとまって一派をなしていたわけではないが,共通しているのは世紀転換期の知的思想的混乱ともいえる文化状況のなかで,彼らが真摯に作中人物の個々の人間をとおして「真実」を描こうとしたその姿勢にあるのだろう。では彼らの見出した真実とは何か。どのように描いたか。彼らはどこに行こうとしていたのか。ノリスが「文体ではなくライフ」こそ重要だと言ったとき,また「我々は文学が欲しいのではない,我々はライフが欲しいのだ」と言ったとき,そこで否定されているものは,ライフのない文体であり,ライフのない文学を指しているだけのことである。
シンポジウムは,ドライサーの考えたライフがアメリカ合衆国や地球を飛び越えて宇宙にまで考察を広めた彼の軌跡をEdgar Allan Poeとの関連で語っていただく村山淳彦氏,ショパンのThe Awakening (1899) をドライサーのSister Carrie より早く出版された事実とその内容をめぐる問題を文学史上の位置づけから語っていただく平石貴樹氏,ロンドンのauthorshipをめぐる自己戦略をドライサーとの対比で語っていただく小古間甚一氏,ノリスの描く「性の神秘」とドライサーのそれとを考察する岡崎の四名による。いずれもドライサーを主とするか従とするかのアクセントの違いがあることをご了解いただきたい。
(岡崎)